戦時中も「笑い」を忘れない…『この世界の片隅に』を『ライフ・イズ・ビューティフル』とセットで観るススメ
第二次大戦中の広島を舞台に、戦時中にあっても変わらぬ人々の笑いあふれる日常と、大切な人とともに強く生きていくことの尊さを描くアニメ映画『この世界の片隅に』。
先日(2017年2月19日)公開100日目を迎えましたが、今なお衰えない勢いで多くの人を魅了し続けています。
今回ご紹介したいのは、この映画とセットで観るとより味わいが増す、ある名作映画です。それは、1998年のイタリア映画『ライフ・イズ・ビューティフル』です。

アカデミー賞、ブルーリボン賞、カンヌ映画祭審査員グランプリなど、数々の映画賞を受賞したまさに「名作」映画である本作。映画に詳しくなくても、題名を耳にしたことのある方は多いのではないでしょうか。
今回の記事では、これら素晴らしい二作品をセットで観ることで初めて見えてくる両作品の様々な本質について書き綴りたいと思います。
『ライフ・イズ・ビューティフル』のストーリー
ナチの強制収容所に収監されたある一家の物語を、ユーモラスかつ温かな視点で描く。“イタリアのチャップリン”と称される、ベニーニのユーモアと哀しみを交錯させた演出が秀逸。
1939年、ユダヤ系イタリア人のグイドは、小学校の教師ドーラに恋をする。彼の純粋さに惹かれた彼女は結婚を承諾。やがて可愛い息子も生まれ、3人は幸せな日々を送っていた。そんなある時、彼らに突然強制収容所への収監命令が下る。
戦時中の「笑い」
まずは両作品の共通点について見てみましょう。そもそもの時代設定として、『この世界の片隅に』は1943年から、『ライフ・イズ・ビューティフル』は1939年から物語が始まります。つまり、舞台となる国が違うだけで、どちらも第二次大戦中を描いた作品なのです。
戦争時代を描く作品には悲劇がつきものです。実際、両作品ともそのようなシーンがあり、戦争というものの酷さを嘘偽り無く描写しています。ただし、共通してユニークなのは、そのような厳しい時代にあってもユーモラスな視点、すなわち「笑い」を大切にしようという姿勢が貫かれているところです。
『この世界の片隅に』では、主人公のすずさんが、その穏やかでおっちょこちょいな性格ゆえに『サザエさん』ばりのドタバタコメディを繰り広げていました。そんな彼女を中心として、人間を人間たらしめる感情である「笑い」を忘れずに、戦時中でも「普通」に生きていくことの尊さが真摯に描かれたのです。

一方、『ライフ・イズ・ビューティフル』はどうかというと、こちらも「どんなときでも『笑い』を忘れない」ということが描かれています。
主人公のグイドを演じたのは俳優であり映画監督であり、そしてコメディアンでもあるロベルト・ベニーニ。グイドはかなり楽観的かつユーモラスな人物で、意中の女性を射止めるために口からでまかせを言い、ナチの収容所で不安がる息子を励ますためにもでまかせを言います。どんなに希望のない悲劇的な状況でも、決して自分の弱さを見せず、常に明るく振る舞おうとするのです。
そして驚くべきことに、そんなグイドの「でまかせ」が、本作ではいちいち本当に実現してしまいます。それはつまり、たとえ自分や周りを勇気づけるための根拠のない「でまかせ」でも、それを抱き続けて生きていくことはとても大切なのだということです。
『ライフ・イズ・ビューティフル』は「嘘から出たまこと」の映画である、と言っても過言ではないでしょう。

以上のように、『この世界の片隅に』も『ライフ・イズ・ビューティフル』も、非常に厳しい状況下でもなんとか生きていこうとする人間の姿が描かれます。そこでのキーワードは「笑い」です。それは、人間がいつの時代も持っていて然るべき感情であり、我々に生きようとする力を与えてくれるものなのです。
対照的な二つの方向性
両作品は「笑い」という要素において共通性を持ちながらも、その帰結については対照的な方向性で描かれます。端的に言ってしまえば、両作品では主人公の結末がまるで反対なのです。
【注意】
以降では『この世界の片隅に』と『ライフ・イズ・ビューティフル』の結末部分に触れています。
『この世界の片隅に』の主人公であるすずさんは、「後に残される」側の人間でした。大切な人を戦争で失いますが、自身は戦争を生き延びたのです。対照的に、『ライフ・イズ・ビューティフル』の主人公グイドは、「先立つ」側の人間でした。
これらの結末を対比的に見ると、両作品のスタンスというものが見えてきます。つまり、「笑い」の発信源たる主人公が「後に残される」か「先立つ」か、ということが、そのまま作品の方向性というものを示しているのです。
主人公が戦争を生き延び「後に残される」場合、そこでは明らかに、「心に傷を抱えながらも強く生きていく人間の姿」というところに主眼が置かれています。すずさんは、一度は「死んでしまいたかった」と嘆くものの、それでも続いていく日常を前にして、大切な人との「笑い」を抱きしめて生きていこうと決めるのです。

対して、主人公が「先立つ」場合、重要になってくるのは「先立った人間が後に残していったもの」です。『ライフ・イズ・ビューティフル』の大オチとして、この物語の語り手が主人公グイドの息子であったことが明かされます。あんなにも悲劇的な話を、あんなにもユーモラスに語っていたのは、他でもないグイドの息子だったのです。それはつまり、グイドの「笑い」の精神が、確実に息子に「継承」されているということを意味します。実際、グイドの「でまかせ」やそれに伴う「笑い」こそが、彼の息子と妻を救ったのですから。

「笑い」を抱きしめて生きていく者と、「笑い」によって救われた者。描き方としては対照的ですが、いずれにせよ「どんなときも『笑い』が生を支えてゆく」という事実が描かれているのではないでしょうか。
違った視点で楽しめる
『この世界の片隅に』と『ライフ・イズ・ビューティフル』では、作品の表現が全く異なります。片方はアニメ、片方は実写。片方は日本、片方はイタリア。前述の通り、描き方の「方向性」も違っています。
しかし、これまで見てきたように、本質的な部分では似たようなことを言っているのです。
それは裏を返せば、違った視点で楽しめるということ。ですから、これを期に二つの作品を見比べてみるとより楽しめるのではないでしょうか。どちらの作品が自分の好みかを考えたりするのも面白いでしょう。この記事でも触れられていない共通性だったり、あるいは決定的な違いだったりを探してみるのも良いかもしれません。
二粒で何度も美味しい映画鑑賞。なんとも贅沢ではないですか。
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この世界の片隅に:© こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会