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【解説レビュー】ブラーで俺らはこじらせた ― 『モダンライフ・イズ・ラビッシュ~ロンドンの泣き虫ギタリスト~』とUK文系ロック

モダンライフ・イズ・ラビッシュ~ロンドンの泣き虫ギタリスト~
©Modern Life Pictures Limited 2016

2005年、筆者が大学時代の話である。サークルの夏合宿で、我々は自然に囲まれたコテージに来ていた。もちろん、「合宿」とは名ばかりで目的は飲み会である。女子たちもたくさんいる状況で、筆者がやった自己アピールは何だったか。それは、ほかの男友達と一緒にオススメのCDを女子に聴かせることだった。

問題はCDのチョイスである。奴がASA-CHANG&巡礼をかければ、筆者はレディオヘッドをかける。奴が電気グルーヴをかければ、筆者はエイフェックス・ツインをかける。およそ、フットサル・サークルでマネージャーをやるような女子大生が積極的に聴くタイプとは思えない楽曲がしばらく流れた。やがて、この奇妙な時間は後輩男子の「それよりDragon Ashをかけましょうよ」の一言で終了するのだった。

マジな話、筆者も友達も心から女子にレディオヘッドを聴かせるという行為がイケてると信じていた。エレクトロと生演奏を融合させ、資本主義社会の矛盾を物憂げに歌う音楽を「頭空っぽな大学生の宴会」で流すという状況にも、得体の知れぬ「革命感」を覚えていた。もちろん、どこをどう考えても、ああいった空間に映える音楽はDragon Ashのほうである。今ならわかる、今なら言える。なぜあのときそれができなかったのだろう。

どうでもいい黒歴史を思い出したのは、『モダンライフ・イズ・ラビッシュ~ロンドンの泣き虫ギタリスト~』を見たせいだ。本作の主人公、リアム(ジョシュ・ホワイトハウス)は究極の「こじらせた奴」である。何をこじらせたのかというと、筆者と同じ「文系ロック至上主義」というイズムだ。そして、90年代からゼロ年代にかけて、文系ロックが市場を席巻していた時期は確かにあった。以下、『モダンライフ・イズ・ラビッシュ』における音楽の使われ方を解説していきたい。

モダンライフ・イズ・ラビッシュ~ロンドンの泣き虫ギタリスト~
©Modern Life Pictures Limited 2016

主人公リアムの恋愛と音楽

『モダンライフ・イズ・ラビッシュ』はリアムとナタリー(フレイア・メーバー)の愛と破局の物語である。2人は大学時代、CDショップで知り合う。ナタリーがブラーのCDを物色している最中にリアムが講釈を垂れ始めたのだ。

「ベスト盤なんて買っちゃいけないよ。アルバムを最初から聴かないと。『Parklife』の前の2枚だっていいんだから。」

音楽的評価こそ高かったものの、「まあまあ売れてるバンド」の一角だったブラーがアルバムで全英1位を初めて獲得したのが3枚目『Parklife』である。そのため、初期2枚を軽んじている音楽ファンは多い。実際、2枚とも悪い内容ではなく、筆者個人の意見を記せば、『MODERN LIFE IS RUBBISH』は『THINK TANK』と並ぶ最高傑作である。要するに、リアムは「音楽ファン、ブラーの初期2枚過小評価しがち」という「あるある」にしたがって見知らぬ女性にカマしてしまったのだ。

しかし、ナタリーはブラーのガチ勢だった。「ベストを買うのはライブ音源があるから」と語る彼女に、リアムは惹かれる。リアムは生粋の音楽ファンで自分でもバンドをやろうと考えていた。美人でユーモアがあって、しかも音楽が好きなナタリーは理想の女性だ。すぐにリアムはナタリーが興味を示していたパーティーへと潜入し、彼女を口説く。ハンサムで楽しいリアムは、ナタリーにとっても最高の男性だった。

この馴れ初めで面白いのは、ブラーについて熱く語る主人公の名前が「リアム」である点だろう。いうまでもなくブラーのライバルだったバンド、オアシスのボーカリストであるリアム・ギャラガーを連想せずにはいられない。そして主人公の容姿は、ブラーのデーモン・アルバーンとリアム・ギャラガーを足して2で割ったようだ。リアムの音楽オタクぶりが反映された演出だといえるだろう。

モダンライフ・イズ・ラビッシュ~ロンドンの泣き虫ギタリスト~
©Modern Life Pictures Limited 2016

リアムと「文系ロック」、そして青春の視野

リアムはとにかく音楽について語りたがる男だ。ブラーだけではない。「無人島に持って行く1曲」ではコクトー・ツインズをチョイスする。エディンバラ出身の音響系バンドである。素晴らしいバンドなのは間違いないが、無数の選択肢から1曲に選ぶ人は少数派だろう。要するに、リアムはこじらせているのである。レトロな音質を好み、デジタル・ダウンロードを否定するのも自分の信念というよりは、「主張のある人間」という立場に執着しているように見える。

では、どうしてリアムはこんなにもこじらせてしまったのか? それは「文系ロック」とくくられたUKのロック音楽の受容に関わってくる。

「文系ロック」という言葉は日本独特の概念であり、欧米で該当する言葉があるのかはわからない。ただし90年代後半からゼロ年代にかけて、日本の音楽メディアで「文系ロック」という言葉は頻繁に使われていた。文脈が統一されていたわけでもなかったので、いまや「文系ロック」の定義は難しい。ただしUKロックに限れば、オアシス的な「ラッズの音楽」に対する、ブラー的な音楽を形容するための言葉だったように思う。

90年代からゼロ年代にかけて、UKの2大ロックバンドだったオアシスとブラーはお互いを敵視していた。それは、オアシスが労働階級を代表し、ブラーが中流階級から生まれたバンドだったからである。オアシスとブラーの抗争は、UKにおける階級闘争を代弁した。オアシスがパブで労働者たちを大合唱させるための音楽だったとすれば、ブラーは大学生やビジネスパーソンがウォークマンで聴くための音楽だった。というより、そのような見せ方で両者は宣伝されていた。シンプルでキャッチーなメロディラインが特徴のオアシスと対比させるため、ブラーには「文系ロック」という呼称が相応しかったのだろう。それに、ブラーの音楽的探究心や抽象的で哲学的な語彙はオアシスにはなかったもので、まさに「文系」と呼ぶに値したのだ。

90年代からゼロ年代初頭に限れば、レディオヘッド、コールドプレイ、ミューズなども「文系ロック」に該当した。彼らの音楽は教養主義的であり、インテリジェンスへのこだわりがあった。文系ロックの洗礼を受けた人間は、リアムのように「音楽とはこうあるべきだ」という思考回路へと陥りやすい。恥ずかしながら、20代の頃の筆者もその一員だった。

だからこそ、リアムの気持ちはよくわかる。リアムはヘッドクリーナーというバンドを立ち上げるが、ライブも音源制作も上手くいかない。なのに、理論だけは一人前だ。それは、文系ロックがとにかくリスナーにロジカルな鑑賞を要求してきたからである。ただし、いくらレディオヘッドが知的な音楽だからといって、感覚的に鑑賞することが罪ではない。事実、レディオヘッドにだって思わず踊り出してしまうようなアップリフティングな楽曲はあるのだ。そもそも、本作のサウンドトラックに収められた“BULLETPROOF… I WISH I WAS”だって、単純に美しいバラッド曲である。

モダンライフ・イズ・ラビッシュ~ロンドンの泣き虫ギタリスト~
©Modern Life Pictures Limited 2016

リアムはレディオヘッドのアルバム『KID A』のCDをナタリーにプレゼントする。「俺には実験的すぎる」と言って。『KID A』はエレクトロニカを大胆に取り入れたサウンドが印象的なアルバムだ。しかし、決して無機質ではなく、ポップミュージックとしての高揚感もつまっている。それがわからないリアムはリスナーとして、人間として停滞してしまっているのだ。

そう、「文系ロック」とは、“音楽は理屈によって語りつくせる”という間違った思い込みに基づく概念だった。2018年現在、「文系ロック」はほとんど死語となっている。当然だ。そもそも、「文系ロック」が成立するなら「理系ロック」も成立するのかという話だ。リアムはとある女性からレディオヘッドを強烈に批判され、衝撃を受ける。別にその女性が駄目なリスナーだとかそういうわけではない。ただ、世の中にはさまざまな音楽の聴き方がある。アイドルポップを理論的に聴いている人間もいれば、クラシックで暴力的な気分になる人間もいるだろう。若かりしリアムには、そんな多様性を受け入れる力がなかったのである。

そして、そんな偏った視野こそが「青春」なのだと『モダンライフ・イズ・ラビッシュ』は伝えてくれる。「どうして誰もわかってくれないんだ」と考え始めるのは、自分が他人をわかろうとしていないからである。今ならわかる、今なら言える。なぜあのときそれができなかったのだろう。

モダンライフ・イズ・ラビッシュ~ロンドンの泣き虫ギタリスト~
©Modern Life Pictures Limited 2016

オアシスは2009年に解散した。ミューズやコールドプレイはスタジアムロック化して文系もへったくれもなくなった。2017年、元オアシスのノエル・ギャラガーはデーモン・アルバーンのプロジェクト、ゴリラズのアルバムにゲスト参加した。2人は現在、一緒に酒を飲むほどに和解している。もちろん、ブラー的な中流階級の文化とオアシス的な労働階級の文化が対立している状況は今も変わらない。重要なのは、肝心の(元)オアシスとブラーのメンバーたちは、もはやそんな対立から降りてしまったという点だ。一言でいえば、彼らは大人になったのである。

本作のラストで、リアムも彼なりの方法で大人になる。無個性な髪型とシャツで穏やかな笑顔を浮かべる元バンドマン。『トレインスポッティング』(1996)や『アバウト・ア・ボーイ』(2002)といった多くのイギリス映画と同じく、『モダンライフ・イズ・ラビッシュ』は主人公が社会の平均律に吸収されて終わる。それが幸せかどうかはわからない。ただ、自分が特別ではないと認めることは、自分が特別だと信じ続けることと同じくらい勇気が要る。その決断は誰にも否定できないのだ、と今もなお2005年から成長できていない筆者は思う。

『モダンライフ・イズ・ラビッシュ~ロンドンの泣き虫ギタリスト~』公式サイト:http://nakimushiguitarist.com/

Writer

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石塚 就一就一 石塚

京都在住、農業兼映画ライター。他、映画芸術誌、SPOTTED701誌などで執筆経験アリ。京都で映画のイベントに関わりつつ、執筆業と京野菜作りに勤しんでいます。

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