【考察レビュー】『ハドソン川の奇跡』の英雄、サリー機長はアメリカ人の心傷を癒す”希望”だった
2009年にあった実際の事件の顛末を描くクリント・イーストウッド最新作『ハドソン川の奇跡』が日本でも公開されました。一足お先に公開が始まっているアメリカ本国では批評的にも興行的にも大成功を収めています。イーストウッド監督は間違いなく現在トップクラスのクリエイターですが、こうも傑作続きだと逆に恐ろしくなってしまいますね。畏怖の感情と言っても大げさではないぐらいです。
前置きと監督への賛辞はこの辺にして、まずは本作がどうして大傑作となったのか、について考ます。そして、本作が「ハドソン川の奇跡」をどのように捉えているのかも考察していきます。史実を基にした映画なのでネタバレもないと思うのですが、一応作品構成にも言及するので気にする人はぜひ鑑賞後に読んでいただきたいです。
【注意】
この記事は映画『ハドソン川の奇跡』ネタバレ内容を含みます。
観客の心をコントロールする熟練の演出
先述の通り『ハドソン川の奇跡』は実話ベースです。2009年1月15日、ラガーディア空港を離陸したUSエアウェイズ1549便がマンハッタン上空でバードストライクに遭遇、全エンジンの出力を失ったためにハドソン川に不時着水したあの事件は、機長の勇敢な判断により乗員乗客155名全員が生還したことも相まって世界中で大きく取り上げられました。まだ7年前なので記憶に新しいでしょう。すなわち、乗員乗客が全員無事というハッピーエンドが周知の題材であえて90分のドラマを作っているのです。これはわりと大きな賭けだと思います。なぜなら、最近の出来事なので当事者の存在を考慮すると大胆に脚色することも難しく(イーストウッド監督の前作『アメリカン・スナイパー』は遺族への配慮と思われる終わり方をしていました)、かといってドキュメンタリーのように馬鹿正直に事実をなぞってしまっても、観客の心を惹くことはできないのです。『ハドソン川の奇跡』では大きく分けて二つの演出を駆使してエンタメ要素のある素晴らしい人間ドラマを完成させました。「時系列のシャッフル」と「多角的な描写」です。
時系列のシャッフルによるスリリングな展開
まずは「時系列のシャッフル」について考えます。「ハドソン川の奇跡」と呼ばれる一連の飛行機事故の顛末は多くの人が知る通りなので、バードストライクから救助までをメインに映画を作ることはおそらく困難でしょう。そもそも事故は離陸直後の出来事だった上に、すべての対応が迅速だったおかげですべての命が助かったことを考えると、尺を伸ばしたり事実を捻じ曲げて映画化することはなおさらふさわしくないかと思われます。
そこで本作は「ニュースの裏に隠された真実」として事故調査委員会に追及されるサリーの葛藤にフォーカスし、興味深いドラマを構築しました。大きな役割を果たしたのが「時系列のシャッフル」です。ご覧になった方は分かる通り、飛行機事故の経緯は後から小分けに明かされます。マスコミに騒ぎ立てられ、憔悴しきっているサリーの様子からいきなり物語が始まるのです。鑑賞時の私はこの構成に面食らってしまい、本作が事故の経緯をどのように捉えているのか分からないモヤモヤに襲われました。しかしおそらくそれは正確に意図したものだろうと思います。なぜならば、後から何度も、ちょうど良いタイミングで過去の出来事がフラッシュバック方式で明かされるようになっているからです。初めに示されるボンヤリとした全貌の輪郭が、断片的に得られる事実収集の過程で徐々に形を整え、最後はストーリー性を帯びた大きな物語となるのです。次第に視界が晴れていく快感があります。この点において観客は事故調査委員会のメンバーと同じ立場に置かれることになります。おかげでスリリングなテンションがキープされ、最後まで飽きることがありません。
多角的な描写によるニュートラルな目線
「時系列のシャッフル」はスリリングな展開の維持だけでなく、「ニュートラルな目線」の提供という効果もあります。その結果、『ハドソン川の奇跡』は事実を冷淡にみつめ、作り手の主観を極力排除した中立的な物語になっているのです。
それは「時系列のシャッフル」と並行して行われる「多角的な描写」によって可能となる演出です。たとえば、物語の序盤は英雄扱いを受けているのに会議室で事故調査委員会に問い詰められるサリーの姿が描かれます。ここで「サリーは多くの命を救った英雄だ」という先行イメージのある観客は、彼の判断が疑われていることに違和感を覚え、彼を応援したい気持ちになるでしょう。さらにPTSDのような症状も暗示され、追い詰められているサリーに同情が集まるのです。ここではサリー(正義)vs事故調査委員会(悪)の対立構造が提示されています。基本的にこの軸は揺らがないのですが、以降度々のフラッシュバックでサリーの方にも疑いの目が向けられる構造になっています。
次に、厳しい追及で疑心暗鬼になったサリーが事故当時の回想をする場面(作中初めて事件の全容が描かれます)では、マンハッタン上空の飛行機をみてテロの危険を感じるニューヨーカーたちの姿や、死の恐怖に怯える1549便の乗客たち、ハドソン川着水の判断という究極の判断に狼狽える管制塔職員の姿が描かれます。特に管制塔職員がハドソン川着水の決断を知ったとき、完全に全員死んだものだと諦めているのは驚きです。素人目には成功したので全て良しとしたいところですが、おそらくプロからすれば、かなり大胆で成功率の低い作戦なのでしょう。サリーが決断した際に見せる副機長の驚きの表情からもうかがえます。マニュアルも無視しているので、無謀と言ってもいいかもしれません。そうなると観客もサリーの判断が絶対だとは思えなくなってきます。本当にこれが唯一の選択肢だったのだろうか?機体を損傷せず、観客を危険にさらすこともなく生還できたのではないだろうか?と思いたくなってくるのです。この心の動きはサリーのものと密接にリンクしており、観客の感情と、段々と自信をなくし思い詰めてしまう彼の姿が重なるようになっています。
そしてクライマックスの公聴会はフライトシミュレータによる検証、フライトレコーダーの音源確認が展開されます。ここまで観客が抱いてきた疑念はここでひっくり返されます。「人的要素」の発見です。シミュレータの検証では空港への帰還は成功しています。しかし、そこには機長が判断する時間が設けられていませんでした。実際の現場ではバードストライクの直後に引き返せるはずがありません。サリーの指摘を受け、シミュレータでバードストライクから空港への帰還の間に35秒の間を置いて検証してみると、これがことごとく失敗します。その直後にコクピットの音源が公開され、機長たちの対応の冷静さ、正確が改めて強調されます。究極の状況において瞬時に判断を下し、わずか208秒の間に全ての決着をつけるには、ハドソン川着水しかなかったのです。
このように情報を小出しにすることで様々な目線を提示し、見事に観客のこころをコントロールしている作り手の意図がハッキリわかるかと思います。あくまでニュートラルな雰囲気を出しながらも、最後はしっかりサリー賞賛に誘導しているさり気なさも非常に巧みです。このわざとらしくない上手さが本作のレベルを非常に高いものにしています。
911のトラウマを癒す希望、ハドソン川の奇跡
本作のエンドクレジットでは実際にUSエアウェイズ1549便に搭乗していた乗客と機長たちが一堂に会する「同窓会オチ」になっています。事故後も手紙のやりとりなどを通じて強い絆で結ばれている彼らの元気な姿は、救われた155の命がいかに尊いものであったかを切実に伝えてくれます。また、アメリカ人が「ハドソン川の奇跡」を歴史的事実として非常に大事に思っていることを、僅かながらも肌感覚で理解できるでしょう。
ふとここで気づくことがあります。本編では一貫して第三者であろうとしてきた目線が、エンドクレジットのオマケ映像では人の温かみを含んだ、エモーショナルな雰囲気に傾くのです。彼の偉業を考えれば、こういった後日談を挟むことでより深い余韻を残し、希望を感じさせる終わりにすることは当然と言えるでしょう。そして注目したのは「ハドソン川の奇跡」を”希望”と捉える態度です。おそらくアメリカでは、熟練パイロットの奇跡による生還劇以上の評価をなされていると思います。それはなぜか。NYで起こったおぞましい大惨事、すなわち911の記憶があるからです。
サリー機長のPTSD的症状の描写で登場する幻覚は明らかに911のイメージであり、高層ビル群に飛行機が突っ込む悪夢が繰り返されます。またフラッシュバックではニューヨーカーたちが旋回する1549便を不安げに見上げるカットも挿入されており、旅客機×マンハッタンの組み合わせをワールドトレードセンターのテロに重ね合わせていることは確かです。
ちょっとズルをすると、本作の脚本を執筆したトッド・コマーニキもウォール・ストリート・ジャーナルのインタビューで似たような内容を語っており、ニューヨーカーとして「ハドソン川の奇跡」をハッピーエンドにしたかったと本心を打ち明けています。すなわち、旅客機×マンハッタンというアメリカ国民の悪夢を蘇らせる組み合わせの大惨事がサリーの英断で未然に防がれたことは、彼らにとって大きな希望だったのです。残された者として感じる、救えなかった数千の命に対する申し訳なさや背徳感とか、2度と繰り返したくない辛い気持ちや次を防ぎたいという願いを温かく包みこみ、癒してくれたのがアメリカ国民にとっての「ハドソン川の奇跡」なのでしょう。だからこそサリー機長たち155名の乗員乗客は一人ひとりがヒーローであり、事故後も強い絆で結ばれた大切な仲間なのです。
本作の着地点が「人間の力」であることも、以上のことを鑑みれば当然です。911の再演を回避した英雄として、未だに傷が残るアメリカを癒すマスコットとして、ひとりの人間が祭り上げられなければなかったのでしょう。悲しいことがあったからこそ、アメリカ国民は”人”を信じたいのだと思います。人間だからミスをしたのではない、温かみのある、知恵と経験を蓄積した生身の人間だからこそ、多くの人の命を救えたのだという考えが、本作のラストからは伺えます。
穿った見方をすれば、常に「アメリカン・ドリーム」や「アメリカの良心」を描き続けてきた保守的思想のイーストウッドらしいゴールだとも考えられるでしょう。事故調査委員会が”理想論”を語る悪役風に扱われていることからも、それは裏付けられると思います。彼はあくまで”現実的”に事実の顛末を捉えているわけです。やっぱり最後は「アメリカ論」に落ち着くのが彼の作品なのかもしれません。
アメリカで大ヒットをした理由もわかってきた気がします。「ハドソン川の奇跡」はこの国の希望としていつまでも心の中で輝きを放ち続けるのです。311を踏まえて製作された『シン・ゴジラ』や『君の名は。』に近い発想があるとも言えるでしょう。大作続きの夏が終わり、秋の入り口として相応しい上質な大人向けドラマでした。イーストウッド監督にはあと30本ぐらい映画を作って欲しいところです。