【考察】『T2 トレインスポッティング』のあの胃に残る浮遊感のワケとは?現代政治史以外の解釈
『T2 トレインスポッティング』 がついに日本でも公開され、ヘロイン中毒者続出─ とまでは流石にいきませんが、トレインスポッティングの禁断症状に苛まれる映画ファンの方々も多いのではないでしょうか。
『映画クレヨンしんちゃん 襲来!!宇宙人シリリ』、『名探偵コナン から紅の恋歌(ラブレター)
前作との比較や繋がりについての言及、イギリスの現代政治史と絡めた解釈は既にたくさんの方がなさっているので本記事ではそれらは敢えて極力避けることにします。(また機会があれば僕も書いてみたいと思います)
『T2 トレインスポッティング』(以下、T2)は前作『トレインスポッティング』(以下、T1)に劣らずエキサイティングな映像と予測不能のプロット、加えて経年変化して成熟しきったお馴染みの面々が全身全霊で表現するお馴染みのキャラクター。良い映画の良い続編。良い監督と良い俳優。良い脚本、良い画面、良い衣装、良い音楽― 悪いところは何一つないのですが、エンドロールが終わり場内が明るくなると鼻腔から長いため息が漏れだします。面白い。面白くないわけがない。けれども何となく落ち着かない。映画館から帰る道中、その夜のシャワーを浴びている間、布団に入って「いい映画だったなあ」と噛みしめている時ですら何となく落ち着かない。身体の中のどこかで氷が溶け続けているような不思議な感覚に包まれます。筆者が感じた― そして皆様もきっと感じたであろう― あの妙な浮遊感は何だったのでしょうか?深く掘り下げて考えてみたいと思います。
【注意】
この記事には、『T2 トレインスポッティング』および『トレインスポッティング』に関するネタバレ内容が含まれています。
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やはり、あのラストがそう感じさせるのか?
かつてのレントンと現在のレントンが互いに激しくカットバックしながら後ろに倒れ込むようにして膝を付くラストシーンは映像的に鮮烈で衝撃的です。しかしそれよりも衝撃的なのは、つまりレントンは結局のところ20年前と何も変わることが出来ないまま映画が終わってしまうということです。T1のラストでは「俺は変わる」「俺はお前らみたいになるよ」と語っていたのに対して全く真逆の結末です。まだ若く未来のあったレントンは大金を持ち希望と共にスコットランドを去りますが、すっかり中年になってしまったT2のレントンに残されたものは何もなく未来はもやがかかって視界不良です。スコットランドにはEU移民が溢れ、イギリスからの独立の住民投票も否決(政治史には触れないと宣言したばかりで恐縮です)。家族は老いた父の他にはおらず、自らの身体も衰えて心臓にハンデを抱えています。
憂うべきは”事態が一向に良くならない”のではなく”一度好転しかけたがチャンスを掴み損ね振り出しに戻っている”という点にあります。『ダークナイト ライジング』(原題; The Dark Knight Rises)でベインは「望みがあるからこそ絶望が大きい」的なことを語っていましたが、まさにこの言葉と完全に一致しますね。
このような悲しい結末はあの妙な浮遊感の一因ではないでしょうか。とはいえ、単にバッドエンドだというだけではないように思えます。古今東西にバッドエンドは溢れていますが、それらとはまた違った後味が残ります。それは一体何なのでしょうか?
作品の冷静な姿勢

このようなレントンたちにこの映画は極めて冷静・冷徹な姿勢を取ります。
過去を賛歌するわけでも昔に目を背けるわけでもありません。両方どちらの肩を持つようで、一方で両方としっかり距離をとるような描き方をしています。かつてと同様に物質的な豊かさをレントンは唾棄しますが、最後は金をめぐっての乱闘騒ぎ。未だにヘロインを止められないスパッドの姿は惨めに映りますがトミーを偲んだあとのプロジェクションマッピングを駆使したヘロイン注射のシーンは羨ましいほど耽美的です。
T1では最初と最後で主張が180度変わりますが、それは主人公のレントンの考えが変わったからです。何もかもが主人公の心情にリンクして映し出されます。しかしながらT2ではどのような立場の人間も受容せず、そして排除しません。
なぜこのような違いが生まれるのでしょう。それはもしかしたらT1とT2とでは語り手が異なっているからではないでしょうか?
T1ではレントンの”choose life, choose a job” というモノローグに始まり、彼のモノローグで終わります。作中でもボイスオーバーで彼の心の声が聞こえてきます。T1の主人公は言うまでもなくレントンですが、(例外シーンはあるものの)この映画の語り手もまたレントンといえます。しかしT2では彼の語りはありません。それぞれのバックグラウンドや思惑を群像劇的に三人称の視点から物語が描かれています。
スパッドがそれまでの半生を自伝的に小説にしているというメタな描写も見逃せません。アーヴィン・ウェルシュの原作小説もまた彼の半自伝的なものであったという事実からも映画の一部・あるいは全体がスパッドの小説であったという可能性もあります。(決め手となる情報に不足しているのでここでは敢えて可能性、という曖昧な語で濁させていただきますが、構造としては例えば『ガラスの街』、『ティファニーで朝食を』(小説)、『ウォッチメン』(映画)などと非常によく似ています。そしてスパッドが最後、妻ゲイルに向けて書いた手紙では自らのことを”Danny Boy”と署名しています。T2の監督は言わずもがなダニー。ボイル。スペルはDanny Boyleです。どうにも無関係なようには思えません。)
したがって、レントンが”choose life調” でFacebookやTwitter、政治や経済など現代社会に対する不満をまくしたてるシーン(ファン的には結構嬉しい場面でしたね)はあるのですがこれは彼の発言に過ぎず映画そのものも主張にはなりません。
このように(『スパッドの小説』説は抜きにしても)三人称的に語られるT2は非常に中立な立場を貫いているといえます。
「レントンは変われなかった」というラストに対して観客は― 彼らに強い愛着を抱かずにはいられない観客の僕たちは― 何もすることが出来ないのです。T1のようにレントンがこちらに語りかけてくるということはなく、画面の中と客席には深い断絶と遠い距離があります。そしてそれを象徴するかのようにカメラは延々とズームアウトしてレントンは黒い点となり、終いには完全に見えなくなってしまいます。
視点が三人称であることに由来する登場人物との距離。そしてその距離故の歯痒さがあの後味の原因なのではないでしょうか。
日常(=平安)への回帰

少し話しは横道に逸れますが、通例、物語には「日常への回帰」がラストに配置されます。
「平和に暮らしていたら事件が起きた!奮闘の末、一件落着」……平たく言えばこのような具合です。人間の脳は物事の理由がわかると安心するし、非常事態は解決されることが望ましいと(意識的に、あるいは無意識的に)考えているからです。
例えば『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(原題; Mad Max: Fury Road )で一向が来た道をそのまま帰ってくる、という物理的往復運動なんかもこの一種です。
日常(=平安)への回帰があると観客は納得し、これを人間は「オチ」として認識します。
ところが、驚くことにこの「日常(=平安)への回帰」運動がT2には無いのです。
T1ではこの原則の通り、今までの悪時から足を洗いレントンは平安を求め国外へと逃走します。しかし今回T2でレントンが物語後半の推進力のために便宜上の悪役を与えられたベグビーの狂乱を収め警察へ付き出すという一連の流れは確かにこの日常(=平安)への回帰に間違いありません。悪者であるベグビーを「退治」することで危機は去り平穏な日々が訪れます。
しかし上に書いた通り― そもそもみなさんご存知の通り― T2の本当のラストはここではありませんよね。本当のラストはあのストロボのような細かいカットバック、そしてT2での本当の悪は社会であり自らの劣悪な環境にあります― あるいはそこから抜け出せない自分たち自身です。そうしたものを「退治」することはせず(あるいはできずに)レントンは半ば諦めたように再びヘロインの世界へ足を踏み入れます。
そもそも、思い返せば冒頭にエディンバラへ降り立ち、かつての街でかつての仲間と再会した時点でレントンは早々にも日常を取り戻してしまいます。特筆すべきはレントンの帰ってきたこの日常は少したりとも平安なものではないということです。
平安な日常ではなく非日常的な日常がこれからも続くことを示したまま幕が閉じられることに観客があまりに不慣れなために冒頭で筆者が述べたような妙な浮遊感、あるいは居心地の悪い違和感が生じるだと思います。
またはレントンの「これで良い」と考える平安と観客が常々望む平安とに大きなギャップがあり過ぎることが腑に落ちないからかもしれません。
このようにキャラクターを野に放ち、観客を置いてけぼりにする挑戦的で意地悪なラストが筆者をはじめ世界中の多くの人々の心に良い意味で深い傷跡を残したのではないでしょうか。
おわりに
「浮遊感」と筆者が冒頭で表現したものはあくまでも個人的な感想であり、もしかしたら読者の皆様の共感を得られるものではなかったかもしれませんが、T1とT2の構造上の違いについてはしっかりとお伝えすることが出来たのではないかと思います。
「浮遊感」「違和感」という響きはいささか否定的ではありますが、流動食のようにすぐに胃に届き簡単に排泄されるような軽い作品ではなく長時間の咀嚼と消化を必要とする濃厚でボリュームのある傑作だという想いの込もったフレーズとして書かせていただきました。
ダニー・ボイル監督はベルリン国際映画祭でのインタビューで「政治的な映画ではない」と答えましたが、やはり現実に起きている出来事を想起せずにはいられません。メイ首相は6月に総選挙を実施すると声明を発表したことも記憶に新しく、北朝鮮は挑発的。アサド政権を巡る米露関係にも亀裂が走りつつあります。
このような社会の激動には一瞥もくれることなく自閉した空間で過去に浸るレントン。懐かしくも哀しい、哀しくも懐かしい映画であったことは間違いありません。20年後、もしT3があるとするなら僕たちは彼らのどんな姿を拝むことが出来るのでしょうか?そんな下世話なことを妄想せずにはいられません。
映画が終わっても物語は終わらないということを改めて示してくれた渾身の一作でした。